「高大接続」に対しての違和感
そもそも大学入試は高校で培う学力とリンクする必要があるのだろうか。
大学も高校も労働者育成学校ではない。
社会で必要となる英語能力は社会で測ればよいし、
社会での英語能力の高まりも社会で測ればよい。
大学で必要となる英語能力は大学で測ればよいし、
大学での英語能力の高まりも大学で測ればよい。
高校で必要となる英語能力は高校で測ればよいし、
高校での英語能力の高まりも高校で測ればよい。
(高校卒業時、大学卒業時の英語能力を測る試験を各段階それぞれで作ればよいのではないか
特殊性のない、全高校生が超えるべきライン・全大学生が超えるべきラインを作り、
クリアできなければ不合格とすれば合理的なのではないか)
「社会のニーズ」とやらに答えて教育に変化を起こすこと自体を否定するわけではないがそれによって本来課されている役割を果たすことができていなくなってはいないか?
「入学試験としての適切さ」が争点にあがりうるが、
それこそ答えがどのようなものであるかを毎年提示しさえすれば
問題ないのではないだろうか。
「能力」のある人材を求めることは良いとしても、
その「能力」を適切に測れないなら、それは絵に描いた餅ではないかと思う。
そもそも違う機関の中で能力観を共有すべきでないし、できないであろうし、できていない。
学校教育では、general purposeと銘打ってspecial purposeを避けるのに、
特定の業種の職業で即使える英語力を持っていてほしいなんて、ちゃんちゃらおかしいのではないか
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